2019年2月28日

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 駅にたくさん人がいる。京王線に乗って中吊り広告を見上げる。おれは政治家の顔をあまり知らない。メガネをかけた男子高校生が英単語ノートを開いている。隣にいる背の低い女子高校生が、LINEで友達にメッセージを送っている。受験の日の朝。2010年の2月、早稲田大学の文学部と文化構想学部と商学部教育学部と社会科学部を受けて、ぜんぶ落ちた。予備校のチューターに結果を伝えると、「浪人するのか?」と聞かれて、「はい」と答えた。会社に向かう途中、高田馬場駅でJRから地下鉄に乗り換える通路に制服を着た高校生たちが並んでいる。キオスクの前をハトが歩く。予備校の授業の後にゲームセンターのポップンミュージックで遊んで、サミットでメロンパンを買ってイートインに置いてある電子レンジで温めて食べた。自習室は空気がピリピリしていたので、南浦和の駅前のミスター・ドーナツで英語と日本史の勉強をしていた。おかわり自由のカフェオレを飲みすぎて腹を下して、毎日ドーナツをふたつ食べていたのでニキビがひどかった。いつも隣の席で勉強している浦和高校の坊主頭の男は医学部の赤本を開いている。3月、受験が終わって、あまり話したことのなかった同級生たちと毎日カラオケに行く。毎週、友達の家を泊まり歩く。TSUTAYAで借りた「秒速5センチメートル」を3日連続で観た。バレンタインの日に予備校でチョコレートをくれた他校のかわいい女の子をちょっと好きになった。中学の友だちに誘われて、川口のライブハウスで初めて好きなバンドのライブを観た。ちょっとだけ酒を飲んでみた。浪人するのをやめて、ひとつだけ受かった大学に行くことにした。予備校のチューターは「どうせそう言うと思った」と言った。家の風呂場で髪を明るく染めて、パーマをかけた。大宮の古着屋で聴いたこともないセックスピストルズのTシャツと、ダボダボのジーンズを買った。バレンタインの日に予備校でチョコレートをくれた他校のかわいい女の子と、その友達と、3人でプリクラを撮った。「大学なんてどうせつまんないよ」と浪人する友達に愚痴をこぼした。ミスター・ドーナツでは坊主頭の男がまだ医学部の赤本を開いている。バレンタインの日に予備校でチョコレートをくれた他校のかわいい女の子は、サッカー部の男の彼女だった。

 

さよならもいわずに (ビームコミックス)

さよならもいわずに (ビームコミックス)

 

 

 上野顕太郎の漫画「さよならもいわずに」を読んだ。11年間連れ添った奥さんとの突然の死別と、その後の日々の悲しみが生々しく描かれている。仕事の合間で奥さんの形見の写真を手当たり次第に探したり、ビデオの中に映った奥さんの乳房に頬を寄せたり、という些細な描写があまりにも切ない。写真や映像といったメディアの説得力を改めて思い知る。

「写真をお守りに使うことはみな、感傷的で、それとなく魔術的な気分を表している。それらはもうひとつの現実と接触しよう、あるいは所有権を主張しようという試みなのである」

スーザン・ソンタグの 『写真論』を引くと、亡くなった奥さんの写真を探すことも「もうひとつの現実と接触」する行為なのかもしれない。「誰かが自分たちを盗撮してくれなかったろうか…」とネットで盗撮DVDを検索する、奥さんが学生の頃に勝手に写真を掲載されたという大学案内のパンフレットを取り寄せるなど、作者の写真・映像への思い入れは強烈だ。生前の奥さんはたまらなくキュートで聡明な女性だった。読み終わったあと、しばらく胸が苦しくて何もできなかった。

 

2016年の2月、修士論文を出して大学院の課程をすべて終えた。二日前の夜から研究室に泊まり込んで、同級生と論文の校正をしながらビートルズの「A Day in the Life」を適当な歌詞で歌った。修論提出日の朝、別の研究室の同級生が来て、論文のデータが破損した、と青白い顔で言った。あんなに青白い顔をした人を今まで見たことがなかった。急いでデータを復旧しようとしたが、データは戻らなかった。前の晩に保存してあったデータで提出するという。研究室では、プリンターが「ガーーーー」と大きな音を立てておれの論文を吐き出している。100枚以上の印刷紙をファイルにまとめて、事務室に出した。そのまま研究室に戻って、机の下に敷いた段ボールの上で寝た。目が覚めると昼過ぎで、同じフロアの別の部屋に集まっていた教授たちに簡単にあいさつをして、大学を出た。その夜、同級生と3人で中野ブロードウェイの裏の焼肉屋へ行った。データを破損させてしまった同級生は、指導教官の先生の「研究はもちろん大事だけど、命をかけるほどのことではない」という言葉に救われたらしい。二日間ろくに寝ていなかったので、ビールをひとくち飲んだだけで一気に酔いが回った。2年間、それなりの労力と時間と学費をかけて論文を書き上げたという達成感と、何も決まっていない卒業後の進路への漠然とした不安が一気にこみ上げてきた。同級生のふたりは博士課程に進学するので、進路が決まっていないのはおれだけだった。新卒の就職活動のシーズンはとっくに過ぎていたので、「とりあえず時給の高いバイトを探そう」という結論に至る。1週間後に、修論の発表と口頭試問があった。論文を提出したところですっかり燃え尽きてしまって、緊張感に欠けた発表になった。別の研究室の教授がめちゃくちゃ怒っていた、と後からいろんな人に聞いた。なかには「論文はよく書けていたよ」とほめてくれた教授もいた。もう少しちゃんと発表すればよかった、と後悔した。2月末から、イベント会場設営のアルバイトを始めた。広い会場にパイプ椅子を並べて、1時間ごとにステージの上に集められてシールを配られ、ひとつひとつの椅子に貼っていった。日給7500円。学部生時代にやっていた居酒屋のアルバイトにも少し顔を出した。時給950円。休みの日は研究室に出向いて後片付けをしながら、DVDを観たり漫画を読んだりラジオを聞いたりして過ごした。夜は同級生や先輩や後輩と飲みに出かけた。やることがなかったので、友達の無職を呼び出して家庭用のビデオカメラを回した。「モキュメンタリー映画を作ろう」と言って、当時無職と付き合っていた女の子と性について議論したり、無職が運転する車に軽く轢かれたりしてみたが、出来上がった映像はまったくおもしろくなかった。おもしろくなさすぎてケンカになった。やがて無職の友人は携帯が止まって、連絡がつかなくなってしまった。バイト代で台湾旅行に出かけて、就職活動用のスーツを買うお金がなくなった。そのまま卒業式を迎えた。夜に指導教官の先生に飲みに連れて行ってもらった。「文章を書くのは続けた方がいい」と言ってくれた。3月の最後の日、研究室を引き払って、事務室に学生証を返却して、おれも無職になった。4月1日、横浜まで映画を観に行った。帰りにみなとみらいの駅ではしゃぐ新入社員の集団を見かけて、追い抜きざまに睨みつけた。

 

 最近は「結局、糸井重里がすべて悪い」と謎の主張を展開しているが、普通におれは間違っていると思う。頭の中で仮想敵をつくって攻撃するのをやめたい。おれが打倒しなくてはいけないのは糸井重里でも川村元気でも箕輪厚介でもない。単純明快で耳障りのいい言葉で人間の営みを簡略化しようとするテキストと戦わなくてはいけない。複雑なことは複雑なままであることがいちばん美しいと思う。2月の深夜、渋谷の交差点でソフィ・カルの上映を観る。あの映像に「まだ見ぬ可能性を」なんて的外れなキャッチコピーを堂々とつけてしまう場所でおれができることはなんてなにもない気がする。難しいことはなにひとつないけど簡単なこともなにひとつない。

 誰かを傷つけるような言葉が喉から出かかったときに、これはヤバい、と気づいたときに、とっさに別の言葉が出てくるような、そういうものが教養なのかもしれない。おれは教養が足りないのでペラペラと薄い話をしてしまう。知り合いのカメラマンの人から教えてもらった筋肉少女帯の「香菜、頭をよくしてあげよう」を聴いて、バレンタインの日に予備校でチョコレートをくれた他校のかわいい女の子のこと、急激に仲よくなってやがて離れていった何人かの友人のことを思い出した。おれはたしかに自分のことを人よりも賢いと思っているところがある。まわりの人を啓蒙しようとしているのかもしれない。「頭をよくしてあげよう」というスタンスで他人と接しているとしたら、それは目を背けたくなるほどグロテスクな事実だ。せめて今、近くにいる人だけは大事にしたいと思う。自分以外の人間やものごとと真摯に向き合うことがここ数年の課題だ。

 

  何度もiPhoneを壊してしまう。床に落とした瞬間にパキっと乾いた音が鳴って、ああこれはダメだ、とすぐに気がつく。事務所の床がカーペットからコンクリートになって、iPhoneを4回割った。頭がおかしくなった気分になる。新宿で修理に出している間、紀伊国屋書店で新刊の本をパラパラと読んだ。ほしい本があったけど、このあとに払う修理代金のことを考えて買うのはやめた。高校時代の友人に子どもができたので、なにかお祝いをしようかと思っていたけど、それもどうやら無理そう。誰の結婚式にも出席したことがない。なんとなく、お祝いの場にふさわしくないと思う。すっかり日が落ちた頃にiPhoneを受け取ると、ディスプレイが新品になっている。先月払った1万円を、また同じお姉さんに払った。その勢いで、乃木坂46生田絵梨花の写真集を買った。かわいい。