引っ越しをした

f:id:melrn:20190923211830j:plain

 

 引っ越しをするなら2月がいい、と風水にくわしい友達が教えてくれた。なるべく寒い時期に引っ越しをすると運気が上がるのだという。そのときは話半分に聞いていたが、ちょうど更新のタイミングもあったので2月の最後の日に引っ越すことにした。家具と家電をすべて粗大ゴミに出して、本と漫画と衣類だけをダンボールに詰めた。

 5年間住んだアパートは家賃6万円なりの住み心地で、台所の雨漏りや風呂場の隙間風など不便なところはいくつもあったがわりと気に入っていた。もともと整理整頓が苦手なたちではあるが、週末には掃除機をかけ、ベランダには商店街で買ったマリーゴールドの花を置いた。壁には日向坂46のポスターを貼って、お気に入りのマンガを本棚に敷き詰めて、それなりに豊かに暮らした。

 

 心地よい暮らしはあまり長く続かなかった。引っ越すまえの1年間は本当に苦しかった。フリーランスになって多少は収入も増えて、家賃や公共料金をなんども何度も滞納していたころに比べるといくぶん経済的な余裕はあった。ただ、あるときから生活への愛着はぷっつりと糸が切れたように失われてしまった。理由はわからない。仕事が忙しかったとか、恋愛がうまくいかなかったとか、いくつかのできごとが積み重なって、ある日とつぜん臨界点に達したのだと思う。今までなんどもそういうことはあった。

 これから誰もこの部屋に招き入れることはないだろう、と思うと急にすべてがどうでもよくなってしまった。またたく間に食器がシンクに積み重なっていき、浴槽にカビが生え、飲みかけのペットボトルや読みかけの雑誌やコンビニ弁当のゴミで部屋が埋めつくされていった。

 私はとても外面を気にするので、息がつまるようなゴミ屋敷で生活しながら仕事用のシャツはいつもクリーニングに出したし、わりと高めな美容室に通った。一緒に仕事をする人には絶対にだらしない人間だと思われたくないというプライドがあった。ただ、あるとき取材で同行した仲のいいカメラマンから「なんか変なにおいがする」と言われたのはかなりショックで、次の日はほぼ丸一日コインラインドリーにこもってクローゼットにある服をすべて洗濯した。

 もともと汚い部屋には慣れていたつもりだったが、ゴミ屋敷での生活は思った以上に精神的にも肉体的にも消耗が激しく、帰宅する気にならないので事務所近くのビジネスホテルになんどか宿泊したりもした。(年末に観た根本宗子の配信作品『もっとも大いなる愛へ』でもゴミ屋敷での生活に耐えかねた主人公の姉がホテルで暮らす場面があって、痛いほど共感できた)

 

 あるときから私はここが自分の家だと認識できなくなっていた。旅先の宿で目覚めたときのように、「なんでこんなところにいるんだろう」と不思議な感覚に陥った。仕事をしているときだけはゴミ屋敷のことを忘れることができたので、荒れ果てた生活から逃げるように原稿を書いた。

 

 不動産屋が紹介してくれた物件は、甲州街道沿いの古いマンションの4階だった。前の住人が引っ越したばかりだという角部屋の白い壁がまぶしかった。ベランダからの眺めがいい。もはやどんな部屋でも現状よりはましだと思った。内見を終えてすぐ、引っ越しの相談に乗ってくれた友達に「笹塚のマンションに決めたよ」とLINEを送る。私は環境の変化に適応できない。仕事用に三軒茶屋駅近くの事務所を借りているので、笹塚に住みつづけるのはどう考えてもコストパフォーマンスが悪かった。ただ、今はまだこの町に住んでもいいかなと思った。5年前に社会人になって、はじめて自分の意思で選んだ町だ。しばらくして、友達から「また笹塚にしたんだ笑」と返事がきた。

 

 家具と家電をすべて捨てたので、もろもろの費用を含めると引っ越しは100万円近い出費になった。なんと馬鹿げていることかと思ったが、ダメになった生活をゼロから立て直すにはそれくらいの出費が必要だった。知り合いがオススメしてくれた長野県在住のおしゃれなインスタアカウントのお部屋写真を参考にしながらレイアウトを決めて、冷蔵庫や洗濯機、本棚、作業机、ソファーなどもインスタをチェックしながら買い揃えていく。時計や掃除機はAmazonでまったく同じものを買った。自分のミーハーぶりを実感できるのはなかなか気持ちがよかった。

 服も半分以上を新調した。友人に連れて行ってもらった西荻窪セレクトショップで、今まで履いたことのない太めのシルエットのボトムスを買った。両玉縁のポケットに丁寧な技術が込められているんです、と店主が熱く語っていた。まったく知らない世界だ、と思った。今までの人生で見過ごしてきたものの輪郭がくっきり見えてきて動揺する。「今まで着たことのない系統の服を気に入ってもらえるのが、この仕事でいちばんうれしいんですよ」と帰りぎわに店主が言う。

 

 ようやく家具のそろった新しい部屋に帰ると、前に住んでいたアパートのことを思い出して胸が痛んだ。かつて同じように希望にみちていた私の部屋。朝に綺麗な光が入るのが気に入っていた。たまに訪れる友人とホットプレートで適当に肉を焼いて酒を飲んだ。勤め先の会社をバックれて宿を失った親友をかくまって、彼の実家に電話をかけた。カーテンの外が明るくなるまで恋人とそれぞれに本を読んですごした。階段を降りて送り出したあと、さみしさに襲われて布団にもぐった。狭くて貧しくてそれでも豊かな生活をダメにしてしまった自分を呪う。

 引っ越して1か月が経ったころ、真夜中にアパートの近所まで歩いて行った。すでに新しい住人が入居していて、私がマリーゴールドを枯らしたベランダにはピンクのバスマットが干されていた。

 

 新しい部屋の壁に敷き詰めた本と漫画だけがかつての暮らしの面影を感じさせる。愛着が少しでも長く続くことを祈った。惨めな20代がもうすぐ終わる。ここでもういちど生活をするのだ。