ダンスはおしまい

いつもなら校了1週間前は土日であろうと取材や入稿やその他もろもろの連絡が重なってくるのだけれど、その日はすべての作業が「待ち」の状態になり、エアポケットのような時間が生まれた。厳密に言えば細かい仕事はまだ残っていたが、今日はもういいやと思って15時からユーロスペースレオス・カラックスの『アネット』を観ることにした。

渋谷駅に着いた時点で上演時間まで2時間以上あったので、センター街を抜けたところにあるサンマルクカフェに入る。隣で学生らしき男2人が、履修登録について相談している。ふたりとも揃いのサークルのジャージを着ていた。レジでホットのレモンティーを注文して、たまに届くSlackやメールを打ち返したり、YouTubeでマセキの事務所ライブ動画を観たりしながら上演までの時間を潰した。

 

スクリーンから一番離れた席で『アネット』を観る。『汚れた血』『ポンヌフの恋人』でもそうであったように、レオス・カラックスの作家性の本質はダンスシーンだと思っていた。特に『ポンヌフの恋人』での、革命200年の花火が打ち上がる橋の上でドニ・ラヴァンジュリエット・ビノシュがワインを飲みながら踊るシーンはあまりに美しく、何度も何度も繰り返し観た。刹那的な幸福に全身を委ね、現実の苦痛を一時的にシャットアウトするダンスーーたまの「パルテノン銀座通り」(1998年)にも、『ポンヌフの恋人』のダンスシーンを彷彿とさせる一節がある。

ぼくらは時々恋人になって/くるったように踊りを踊りつづけて/ぶっこわれた笑い方を楽しみ/そうして言葉を全部うしなった夜に沈もう

open.spotify.com

(これはkitoriのカバー。原曲はYouTubeの非公式のやつしかないっぽい)

 

『アネット』にもダンスシーンは描かれていた。しかし、あの嵐の中でのアダム・ドライバーのダンスは、過去にカラックスが描いてきたような美しいものではなかった。カラックスは、決して悪い意味ではなく、もうダンスの効能を信じていないのだと思った。これ以上なにを書いたらいいかわからないから『アネット』は素晴らしい作品だったとだけ記しておきます。エンドロールの後のロングショットで泣きそうになる。

『アネット』は、“くるったように踊りを踊りつづけ”た後の人生と、娘の変化に主題を置いていた。そして多くの人が指摘している通り、カラックスが正面から有害な男性性を描いていることもこれまでに見られなかったことだった。

 

ダンスの後も人生は続く。あのポンヌフの橋の上のダンスを無批判に享受できる世界に私たちは生きてはいない。長く見ていた夢から覚めて、現実を直視しつづけている。

だから、うまく踊るための知恵が必要だ。ダンスのない世界で、現実を浴びつづけて暮らすのはつらい。コロナ禍で酔うことも踊ることもできなくなって、連絡不精に拍車がかかって、なぜか大人になった気分でいた。ユーロスペースを出て、渋谷駅に向かって道玄坂を下りる。昔、友人が連れてきた知らない人と肩を組んで踊り、酔い潰れて宮下公園でペットボトルの水を浴びたことを思い出した。23歳のころ、なんの生産性もなかった1日のことでした。

今、私は、どうやって踊ることができるのか?