2019年4月21日

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 商店街の角の喫茶店が潰れた。先月まで普通に営業していたのだけど、3日前に前を通ったら店内の什器やインテリアがすべて運び出されていて、ガラスの向こうにコンクリートむき出しの空間が広がっていた。笹塚には深夜に開いている飲食店が少ない。仕事帰りの深夜に立ち寄ってコーヒーを飲んだり、土日に原稿を書いたりするのによく使っていた。ボロネーゼとアサリのリゾットがおいしかった。なぜかいつも奇妙礼太郎のアルバムが流れていて、おれにとって奇妙礼太郎の歌は笹塚の歌だった。いずれこの街を出て彼の「オー・シャンゼリゼ」を聴いたら、引っ越したばかりの頃のことを鮮明に思い出すと思う。入り口の近くのテーブル席で、たくさんの本を読んだ。公共料金の支払いを忘れて、自宅の電気が停まったときは復旧するまでワイン一杯でずっと居座っていた。寂しい気持ちもあるけど、そういう季節だと思う。居場所はまたどこかで見つけられる。

 

 4月4日、下北沢の北沢タウンホールで玉田企画『かえるバード』。前作までの濃密な密室会話劇から一転して、場面は次々と入れ替わり、ストーリーも静かに、しかし着実に展開していく。もちろん、巧妙にセリフの練られた口喧嘩やくだらないマウンティング合戦といった玉田企画ならではの皮肉の効いたコメディのエッセンスもふんだんに盛り込まれている。特に病院内でのカップルのDVをにおわせる口論や、援デリ嬢を値切ろうとするオタク(玉田真也)の詭弁には声を上げて笑ってしまった。デリヘルにハマる大学講師という設定もめちゃくちゃリアル。危篤状態で入院している高校時代の恩師の不在をめぐって展開する物語は、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の趣き(小説しか読んだことないけど)。現代だと朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』的とも言える。カラオケボックス(『あの日々の話』)やリゾート地(『バカンス』)など“帰りたくても帰れない”閉鎖空間を描いてきた前作までとは異なり、本作の空間は外へと開かれている。先の見えない空間に行き詰まりを感じてその場を去ろうとする女性たちと、それを必死に引き止める男たち。両者のコントラストが強調されるほど、そこに埋められない時間の残酷さが浮かび上がる。ほどよいタイミングで見切りをつけて帰ろうとするのはいつも女性陣だ。男性陣はその場の状況に固執して留まり続ける。この世の真理なのか。

 終盤、山科圭太演じる西野(玉田企画の作品では彼が常に物語の推進役かつトリックスターでもある)が高校時代にイジメていたアズマ(今野誠二郎)と対峙する場面。「お前と出会ってなければ……」と責めるアズマに対し、「人のせいにすんなや!」と逆ギレする西野。どんな場面にあっても洒脱でユーモアの効いたセリフを散りばめてきた玉田企画の作品にあって、初めて本気の殴り合いを見た。愛する女性たちが去り、それぞれが隠してきた後ろめたさと抜き身で向き合ったとき、救急車のサイレンとともに物語は唐突に終わる。主宰の玉田が「新しいものに挑戦した」という今作は、洗練されたセリフ回しや関係性の妙といった魅力を残しつつ、シリアスな心の叫びを内包した快作であった。毎回のことながら、役者も本当に素晴らしかった。

 

 

 

 

 

 Twitterで本当にキツい投書を読んで、しばらく落ち込んでしまった。大学の新入生のころ、一度だけ行った野球サークルの新歓で「かわいい女の子誘ってきてね」と先輩に言われたときの強烈な嫌悪感を思い出した。結局サークルには入らなかったので「サークルの新歓」に対する不快感(と少しの偏見)だけが今も強く残っている。男子学生の「女の子を見極めてる」みたいな発想がもう全部ダサすぎて、もうすぐ平成も終わるっていうのにそんなやつらがのさばってることにかなり失望した。これだけフェミニズムの思想が広く届いているはずなのに。ぜんぜん世の中よくなってねーじゃん。

 ひたすら絶望的な気持ちになる話だけど、大学はそういうダサいやつらの価値観になんか合わせなくてもいい場所だ。高校よりも勉強はよっぽど楽しいし、研究はもっと楽しい。素敵な音楽にも映画にも小説にもこれからいっぱい出会える。傷みを救ってくれるものが必ずある。そういうものから培った教養がいつか自分を肯定してくれる。遥か高い場所から、自分のダサさに気づかないようなやつらを見下すことができる。きれいごととかじゃなくて、大学はそういう場所だと信じている。

 

 

 ポレポレ東中野で『沈没家族』を観た。今から20年前、ひとりのシングルマザーがはじめた「沈没ハウス」という保育共同体でたくさんの見知らぬ大人たちに育てられた監督が、当時の「保育人」たちを訪ねるドキュメンタリー。明るく朗らかに育った青年と久しぶりに対峙する大人たちの表情がいい。フリーターやアーティストなど、社会の傍流にいた人々がそれぞれの関わり方で子育てと向き合い、自身もまた成長していく。「めちゃくちゃ心温まる話だな」と思いながら観ていたのだけど、中盤で監督が離婚して家庭を離れた父に会いに行く場面はなかなかハードだった。実父でありながら保育共同体である「沈没ハウス」には近寄れず、子どもの運動会や授業参観で疎外感を感じていた父の葛藤が語られる。見知らぬ大人たちと新しい家族の形を模索していった母親と、妻と子と3人だけの家族になりたかった父親。血縁をめぐる両者の間の断絶はそのまま、これからの時代の家族の問題にリンクしていくのかもしれない。

 

 

 3月最後の土日で、『テラスハウス』の軽井沢編を12時間連続で視聴。13インチのMackBookAirから溢れ出すオシャレなムードと恋心をくすぐるポップミュージック、そして魅力的なイケメンと美女たち。夜中、激務の影響で荒れに荒れまくった自室で湿ったタバコを吸いながら「この世は素敵な恋にあふれているな」という気持ちに。アイスホッケー選手の佐藤つば冴ちゃんは鬱屈した文系男子の理想の女の子を具現化したようなキュートなルックスだ。ショートカットで愛嬌のある薄い顔立ち。軽井沢から東京まで、好きな男の子のためにプレゼントを買いにいくという純粋さ。男手ひとつで育ててくれた父親への深い愛情。全力でアイスホッケーに打ち込む真摯な姿。そして、駅の改札前での恋人とのめちゃくちゃエロいキス。あんなの好きにならない方が無理だ。しかしおれは、まっすぐでポジティブでかわいいつば冴ちゃんが常時インターネットに貼り付いて鬱屈した日記を垂れ流しているようなクソ文系男子に振り向くことなど決してないということを知っている。絶対にない。つば冴ちゃんが恋人に選んだのは、後ろ暗いところが一切ないさわやかハイスペックな高身長のモデルだった。

 彼女は誰に対しても平等に優しく、いつだってみんなを楽しませようとサービスしてくれる。それを「もしかして好きなのか?おれのこと……」ととんだ勘違い妄想を膨らませ、自分勝手な片思いを募らせ、暴走して撃沈する男たちの姿が画面の奥に鮮明に浮かんでくる。彼女の足元には、距離感を測り間違えた文系男子の無数の屍が転がっている。しかし、そこまでわかっていながら、もし実際につば冴ちゃんが同じ教室にいたら「もしかして好きなのか?おれのこと……」と思い込んでしまうだろう。10年以上もクソ勘違い文系センチメンタル男子のカルマを背負ってきたおれにもはや冷静な判断などできるわけがない。脇目も振らずに全力で岸壁にダイブしていくはずだ。しかし、それは決して不幸なことではない。おれも心のどこかで、ズタボロの屍になって彼女の足元に転がり伏せたいと思っている。申し訳なさそうな顔のつば冴ちゃんに「ごめん、やっぱりあなたのことは友達としか見れない」とささやくような声で言われたい。かつて言われたことがあるような気さえする。

 そして、そういう暴走野郎が出てこないのが、『テラスハウス』という作品の素晴らしいところだ。ゆるやかな愛情と信頼関係で結ばれた、かけがえのない青春の空間。スタジオのYOUとチュートリアル徳井、トリンドル玲奈山里亮太らの掛け合いも秀逸で、ずっと安心して観ていられる。頭のおかしいやつが暴走するのが好きな方には、同じくNetflixで配信されているオマージュ作品『THE HOUSE』をおすすめしたい。

 余談だが、インターネットに張り付いているタイプの鬱屈したセンチメンタル文系男子は仮に付き合ったとしても絶対に話が合わなそうな女性を好きになる傾向がある(山本調べ)。これは恋愛映画や漫画によって培われた「叶わない恋がいちばん美しい」という謎の思い込みがあるからではないかとにらんでいる。ここまで絶賛しておきながら、おれ自身もつば冴ちゃんとのデートでどんな話をすればいいのかまったく想像がつかない。信州そばの話しかできないと思う。


【特別公開】 「至恩といるときだけだよ♡」至恩&つば冴、ラブラブ軽井沢デート!

 

 

 

 今年、芥川賞を受賞した町屋良平の最新刊『ぼくはきっとやさしい』は、過剰にセンチメンタルな文系男子を主人公に据えた珠玉の恋愛小説だった。主人公の岳文はいつも女の子と一瞬で恋に落ちる。みずみずしく繊細なモノローグが秀逸で、それは岳文の思考がどこまでも自分の内面に留まりつづけていることの裏返しのようだ。「僕はきっと優しい」というタイトルも、異性とうまくコミュニケーションがとれない自分自身へのささやかな願望のよう。

 

 もっとちいさなからだにうまれたかった。体格としても、権力としても、限りなくちいさくちいさく、だれもこわがらせないそういう気持ちで、食事もすこしですむし、それぐらいならじぶんで稼げるよ。(中略)どこか果てしなく遠い、女より男がずっとちいさく弱く生まれ、女性性のほうが男性性よりも遥かにいばっているわく星で、声高に宣う。「それでも君を守る」

(町屋良平『ぼくはきっとやさしい』)

 

 帯文に書かれた一節のなんと美しいことか。いつかおれもこんな文章が書ける日がくるのだろうか、と考えると少し絶望的な気分になる。

 

 そして「男性性」がそのまま加害性につながる世界で、ある種の極端な表現ではあるが、ここに描かれている「弱さ」は切実な問題であるように思う。そもそも人間同士がたがいに傷つけずに理解しあうことはそう簡単なことではない。男女の間ではなおさらだ。おれも人より体が大きく、顔つきも話し方もあまり穏やかな方ではない。異性と物理的に距離を縮めることは、大げさではなく、それだけで相手に危険を感じさせるかもしれない。両手をあげて丸腰でコミュニケーションをとっているつもりでも、おれの発言や挙動やビジュアルが相手を不快な気持ちにさせているかもしれない。特定の誰かに好意を抱いてコミュニケーションをとることは、それだけで相手を深く傷つけるリスクがある。そこまで理解してなお異性と親密な関係を築こうとすることとは、果たして。

 誰からも見向きもされなくなる日をどこかで望んでいるような気がする。楽しい会話もデートもセックスもまったく成り立たなくなって、そこでようやくコミュニケーションへの諦めがつく。「これはさすがに無理っすね」と笑って言えるようになりたい。それは強烈にさびしいような気がするけれど、もしかすると最適解なのかもしれないと少しだけ思っている。 

 

ぼくはきっとやさしい

ぼくはきっとやさしい

 

 

 

 炊飯器の中で腐った白米を捨てる背中が今日も素敵ね

 

 寝るまえに苦い薬を飲み込んで幸せになる夢をみていた

 

 水族館のイルカみたいな爪の色プールの底で朝を待ってる

 

(今月の自選オリジナル短歌3選)