2015年8月25日

そうめんを温めて食べるとおいしい、という発見があってそれにはどうやら「にゅうめん」という名前がついているらしい、とひとつ学習をした。PCで「にゅうめん」と打ったら「煮麺」と変換されて、これでにゅうめんと読むのか、とまたひとつ学習をする。「あったかいそうめん」と言う必要もなくなって、たとえば何かの雑誌で「アンニュイ」という単語を覚えた途端に今までは知っている形容詞のあれこれを繋いで伝えていた感覚が「アンニュイ」の一言で説明がつくようになってしまったりして、そういうものかと思う。にゅうめんはぐだぐだに伸びたやつが意外とおいしい。


 そろそろ夏だな、どこかへ旅行に行こうかなと思っていたらもうほとんど夏は終わってしまって、ひとつにはお金が全然足りていないことと時間の作り方があまり上手でないこと、あとはそれなりに忙しかったから仕方ないかと思う。今は毎週のやらなきゃいけないこととやりたいことを整理して、スケジュールを立てて消化していくことが幸せなことで、それはとても苦手なことでもあるけれど、最近は調子の良い日と悪い日を3:1くらいのペースで繰り返していて、調子の良い日の夜はベッドに横になるとすぐに眠る、調子の悪い日の夜はiPhoneの画面の光を浴びて呻いているうちに少しだけ眠って朝になる。7月末からぐだぐだと先延ばしにしていた台湾への旅行の計画もこのままだと熱海になってしまうかもしれない、熱海も好きだからいいんだけど。
 夜のニュース番組でみなとみらいの観覧車が映って、ついこの前まで毎日見ていたのにちょっと懐かしい感じがした。海が近くにあれば大丈夫、という友人の言葉を思い出して、なにがどう大丈夫なのかは忘れてしまったけど、たしかに海が近くにあるのはいいことだった。
 たまの「パルテノン銀座通り」という歌のなかに「難しいことは何ひとつ無くて、簡単なことも何ひとつ無い」というフレーズがあって、この歌がとても気に入っている。23歳の夏はたまを聴いて過ごしている。もうすぐ24歳で、難しいことは少しあるかもしれない。簡単なことはあまりないような気がする。


 日記を書こうと思い立って8月1日から今日までの日々をラップにしようかなと思ったりもしたが、出だしの「にゅうめん」でひとつも韻が踏めずにリリックメイカーとしての己のセンスの無さを痛感した。なにひとつ内容の無い日記を書くこととは、それなりに充実していたはずの夏はにゅうめんとたまと台湾(行ってない)で説明がつくようになって、結局「アンニュイ」という言葉もいまいちピンとこない、そういうものかと思ったりして、にゅうめんはぐだぐだに伸びたやつが意外とおいしい。