ベーコンを焼いて火災警報が鳴る

 

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 テレビがずっと点いている。朝、布団を出るよりも早くリモコンのボタンを押した。目の端でチカチカ光る。毎日通っていた駅前のエクセルシオールは4月1日から全席禁煙になったのでたぶんもう行かない。

 メールボックスを開くと仕事関係の連絡のほかにイベントのお知らせが一通。起業家支援なんとかプロジェクトみたいな話だったので読まずに削除した。送り主は大学時代の知り合いで、インターンシップの帰りに一緒にクラブへ遊びに行ったことがあった。あのときは就活シーズンで、渋谷駅のコインロッカーにリクルートスーツを押し込んでダッシュでイベントへ向かった。いわゆるチャラ箱と呼ばれるようなクラブでひとしきり酒を飲んだあと同級生の男女8人で鳥貴族に行って、シロップの味がする安い酒を飲んだ。そのうちのひとりが誕生日だったのでAKBの「涙サプライズ」を合唱した。それはその場限りの空虚なハイテンションだということをその場の誰もが知っている。始発まで起きていたのはふたりだけだった。0時前に寝たやつはみんな大企業に就職した。

 

 中学生のころに通っていた塾に近藤くんという男の子がいて、彼は駅の反対側のブックオフで万引きを繰り返していた。近藤くんは水泳をやっていて体つきもたくましく、明るくて気のいい男だった。中3の途中で塾に入ったおれに最初に話しかけてくれた友達だった。模試の帰りに一緒に池袋のロサボウルで遊んだ。夜に授業が終わると、彼はブックオフに行って「BLEACH」や「FAIRY TAIL」をリュックの中に詰めていた。それを盗品だと知らないふりをして、おれは近藤くんからマンガを借りた。永井大似のイケメンで、同じ中学校の女子からもモテていたらしかった。品川の女子校に通う彼女がいて、夏休みに童貞を捨てたと自慢していた。

 今振り返れば、という話でしかないのだけど、悪いのは近藤くんではなくてあの場所だったと思う。受験が終わって塾をやめる直前に近藤くんが補導されたときもそんなに驚きはなくて、ただ単に悪い場所だからだと思った。いつも友達の誰かが補導されて、女子の誰かが妊娠した。

 3月に彼がダイエーの化粧品売り場でワックスを盗んで補導されたとき、「あんなのいつか捕まるに決まってんじゃん」と塾の友達とヒソヒソと話した。お前も近藤からマンガを借りていたくせに。おれは密かに近藤くんの連絡先をケータイから削除した。近藤くんのことは好きだったけど、彼は悪い場所からめでたく退場したのだと思うことにした。おれは家から2時間かかる遠くの高校に進学することが決まっていて、もう誰とも会わないと決めていた。家から一番遠くの高校を選んだのはおれひとりだけでもこの場所から逃げ切りたかったから。おれも彼もあのときはなにか醜いかたちをしていたと思う。

 高校生になって一度だけ、地元で自転車に乗った彼の姿を見かけて吐きそうになった。自分がなかったことにした記憶が鮮明に蘇ってくる。うしろめたさと罪悪感で目眩がした。数人の友達と一緒に、彼はおそろいの水泳部のバッグを背負って笑っていた。

 

 怒涛の進行によって雑誌の仕事が校了を迎えて、翌日は昼まで寝ていた。手持ちの仕事がこれでほぼゼロになった。先行きは楽観できないがその事実と真面目に向き合う体力も残っていない。冷蔵庫の残り物の納豆とベーコンをフライパンにぶちこんでチャーハンをつくる。3日ほど校正紙とノートパソコンと向き合っていたので体じゅうが凝り固まっている。あまりおいしくないチャーハンを胃に流し込んで、家のまわりを散歩した。人のいない公園でコーヒーを飲んでいると編集長から電話がかかってくる。さっきまでだらけきっていたのが悟られないようにパリッとした発声を心がけたが、電話の奥から聞こえる編集長の声も昨日までとは別人のように緩んでいる。校了翌日の編集者はみんな仏のように優しい。

 

 昨日までかろうじて人間のかたちをしていたが仕事がなくなった今のおれはもはや怠惰な肉の塊でしかなく、散歩から帰ってからもワイドショーを眺めつつ延々と酒を飲んでいる。平日のど真ん中だが仕事がなければパソコンに向かう必要もなく、もちろん通勤の必要もないしましてや仕事をしているふりをする必要もない。溜めている原稿がいくつかあるが、締め切りはまだ先。酒のつまみのチーズがなくなって、冷蔵庫になぜかベーコンだけが大量に余っているのでまたフライパンで炒めようとキッチンへ向かう。油を熱しすぎていたせいか、ベーコンを投入した途端にフライパンから煙が上がり、換気扇を回していなかったことに気づいた瞬間『火事です火事です』とけたたましい音を立てて火災報知器が鳴った。あわててガスコンロを止めるが、わずか一畳ほどの狭いキッチンにはすでに煙が充満している。警報の止め方がわからない。あわててブレーカーごと落とすが、大きなアラーム音は止まらなかった。ようやくスイッチを発見し、何度か拳で叩くとようやく警報は止まった。念のため窓の外に向かって「火事じゃないです!大丈夫です!」と叫ぶ。しばらく動悸がおさまらなくて最悪な気分だった。

 

 あの日クラブの帰りに、おれは来月にまた渋谷で飲む約束をしてLINEを交換した。JRの渋谷駅で始発を待っている間に雨が降って、ずぶ濡れの知らない人に傘をあげた。2015年の5月、国会前でSEALDsのデモが行われた日だった。ニュースでなんども奥田くんのスピーチが取り上げられていた。おれは地元の駅のトイレで吐いて、雨にぬれながら帰って高熱を出した。コインロッカーにスーツを預けたまま帰ってしまったことを思い出して、ふらつく足で再び渋谷に向かっている途中「おれはこれから何も成し遂げないだろうな」と強く確信した。