2015年の横浜ラプソディ

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 大学院生の頃、半年ほど横浜のシェアハウスに住んでいた。

 港の見える丘公園のすぐ近くの、ベッドルームが3つと共用リビングと風呂がある大きな庭付きの一軒家だった。2階に住んでいるオーナーの男性は横浜のサンバチームの代表で、色黒で屈強な体つきのバイク乗り。奥さんは地元のライブハウスやBarで歌っているシンガーソングライター。フロアが別れていたのでたまに会う程度だったけれど、オーナー夫妻は顔を合わせるたびに「ハ〜イ、ダイキ!」とハイタッチをしてくるラテン系なノリの人たちだった。朝は2階から聴こえるアコースティックギターの音で目が覚めた。

 なぜシェアハウスに住んでいたのかというと、当時横浜の馬車道にあった「BankART studio」というスタジオのアーティスト・イン・レジデンスに参加することになったからだ。おれは毎日、図書館で横浜近辺の団地やニュータウンの資料を集めたり、老朽化した団地を訪れて取材と撮影をしていた。アーティストというよりは研究の一環に近かったが、プログラムの成果発表としてそこそこ大規模な展示があるので、それに向けて集中的に制作を行う必要があった。それでスタジオの近くに住んだほうが何かと便利だろうと思い、奨学金と日雇いのバイト代で横浜のシェアハウスに移り住んだのだった。家賃と光熱費込みで月5万円という、貧乏学生にはうれしい好条件も決め手だった。

 

 庭にはたくさんの雑草や花が生い茂っていた。毎日、いろんな種類の虫に体じゅうを刺されながらそこでタバコを吸った。たまにオーナーも庭に降りてきて、一緒にタバコを吸った。

 午前中はシェアハウスのある山から自転車で取材に出かけて、午後からはスタジオでプリント作業をする。旧日本郵船の倉庫を改装したBankARTの巨大なスタジオには特に仕切りもなく、おれと同じような大学院生や美大生、専門学生、アルバイトをしながら作品制作をしているアーティスト、映像作家、研究者などの若手40人程度が2フロアをシェアしていた。

 スタジオ通いの日々で最初に仲良くなったのは濱中さんというおじさんで、彼はリトグラフ作家だった。おそらく40歳くらいで、20年以上も清掃員の仕事をしながらひとりで版画のアニメーションを制作していた。

 たまに彼の作業スペースに顔を出して「濱中さん、調子どうですか?」と聞くと、いつも「終わる気がしないねえ」と淡々とした口調で返事をしてくれる。セル画の一枚一枚をカラーで丁寧に描き込んでいたのでものすごい熱量を感じる作品だったが、3か月後の成果発表展までに完成するとは思えなかった。それでも、濱中さんの作品制作への意欲にはとても感銘を受けた。

 濱中さんはいつもマイペースに作業を進めていた。おれが作業に飽きて話しかけにいくと、なぜかいつもラングドシャルマンドをくれた。

 

 展示に向けた制作や研究などの準備が山ほどあるとはいえ、おれはかなり呑気な日々を送っていた。当時は修士課程の2年生だったが、単位もほとんど取り終えていて、中野にあるキャンパスに通うのは週に1度のゼミだけだった。土日はシェアハウスの大きな液晶テレビでDVDを観たり、野毛山動物園を散歩したり、夜の山下公園で熟年カップルを眺めたりしていた。たまにスタジオの同世代のメンバーと関内の中華料理屋で酒を飲んだ。

 スタジオからの帰り道、横浜スタジアムの外に設置されたモニターでベイスターズの試合を応援した。その年のベイスターズは10数年ぶりに前半戦を首位で折り返し、球場の外でタダで試合を見ているおじさんたちも毎日のように盛り上がっていた(その後、歴史的な失速で最下位に沈むのだが)。

 

 基本的に修士課程の院生がやるべきはただひとつ「修士論文を書き上げること」だけなので(博士課程進学をめざす学生は学会発表の機会も多いので一概には言えないのだけれど)、もちろん横浜でも研究はコツコツと進めていたけれど、それでも余りあるくらいの時間と精神的な余裕があった。

 順調にいけば、翌年の春には長い学生生活が終わる予定だった。今考えるとおそろしいのだけど、当時おれはいっさい就職活動をしていなかった。横浜でおれがモラトリアムを満喫していたころ、隣の研究室の同期たちは企業の選考の真っ只中だった。博士課程に進学するつもりもなかったので、研究室の指導教官がわざわざ横浜まで来て「卒業したらどうするんだ」と心配してくれた。「夏ごろに実家に戻るので、それから就活します」と答えた。本当は就活する気はまったくなくて、なんとかなるだろう、と思っていた。新卒での就職は半ば諦めていたので、卒業したら地元の居酒屋でアルバイトをしながら文章を書いたり写真を撮ったりしようと思っていた。

 

 シェアハウスにはおれのほかにもう一人、もう名前は忘れてしまったが、ロードバイクで日本一周に挑戦しているという男が住んでいた。彼はロードレーサーが着るような、全身にカラフルなロゴマークが入ったユニフォームを毎日着用していた。それしか服を持っていなかったんだと思う。リビングで顔をあわせるたびに「服、ピッチピチやん」と思った。

 同じ家のなかで過ごしているのだから何かしらコミュニケーションが生まれるものだろう、と思っていたが、生活リズムの違いもあって最後まで自転車野郎とまともに会話を交わすことはなかった。だから「服、ピッチピチやん」という印象しか残っていない。一度だけ、リビングの机に置きっぱなしにしていたホンマタカシの『TOKYO SUBURBIA』を指差して「それ、おもろいな。俺の地元もそんな感じの街やったわ」と言われた。「そうなんすよ。ホンマタカシっていう写真家の本で、ここに写ってるのは多摩ニュータウンなんですけど……」と丁寧に説明したが、話の途中で興味を失った様子だった。

 

 シェアハウスのオーナーは、たまに元町通りの焼き鳥屋に連れていってくれた。6月の台風の日の夜、焼き鳥屋に一緒に向かっていたオーナーは、傘を持たずにずぶ濡れになって歩いていた。奥さんにこっそり「なんで傘ささないんですか?」と聞くと「この人、『ヨーロッパでは誰も傘なんて持ってない』って言って一回もさしたことないのよ」と教えてくれた。焼き鳥屋の店員さんは、海から這い出てきたようなずぶ濡れのおじさんを見てギョッとしていた。

 

 いつも目のやり場に困るほどセクシーな格好をした奥さんは、たまにパンを差し入れてくれた。黄金町に、天然酵母のおいしいパン屋があるのだという。「週に1回、2階でヨガ教室を開いてるの。ダイキも一緒にどう?」と誘ってくれた。少し興味はあったが、一度ちらっと覗いたら参加者が全員セクシーな女性だったのでそこに入る勇気は出なかった。

 

 シェアハウスに住んで3ヶ月が過ぎたころには「ここでバイトしながら横浜に住み続けるのもいいか」と考えるようになっていた。自転車野郎はそのうち出て行くだろうけど、部屋が空いたらまた誰か違う人が来る。たくさんの人が出たり入ったりするシェアハウスで、いろんな人と交流しながら暮らすのもそれはそれで悪くない。そしてなにより、埼玉のベッドタウンのつまらない街で育ったおれにとって、横浜は「海がある」というだけでもとても魅力的な場所だった。

 オーナーはことあるごとに「横浜が好きになったかい?」と聞いてきた。おれはそのたびに「好きになりました」と笑顔で答えていたが、あるとき焼き鳥屋で「このまま横浜に住みたいんですよね」と言ってみた。オーナーも喜ぶかと思ったが、そのときばかりは真顔で「一回は東京でがんばってみたほうがいい」と言われた。「東京のほうがいろんなチャンスがある。東京の仕事が合わなかったら、横浜に戻ってくればいいさ」とオーナーは優しい口調で言った。

 横浜は別に地元ではないけれど「戻ってくればいい」と言われたことがうれしかった。

 

 オーナーはもともとレコード会社でA&Rの仕事をしていたらしい。「〇〇ってバンドな、俺がデビューさせたんだよ」と自慢げに教えてくれたが、おれはそのバンドを知らなかった。

 

 6月の展示を終えて、アーティスト・イン・レジデンスのプログラムは終了した。スタジオのメンバーの多くは今も作品を作り続けているので、SNSで近況をチェックしたり、展示があれば足を運んでいる。おれは彼らのようにはなれなかった。結局、最後まで作品が完成しなかった濱中さんはその後、専門学校の版画講師になったと聞いた。BankARTのスタジオは、2018年に旧日本郵船倉庫から移転してしまった。

 

 プログラムが終わってからも、しばらく横浜に住んでいた。そのころ修士論文で台湾のニューシネマについて調べていて、たまたま横浜市の中央図書館に台湾映画のVHSが大量に残っていたのだ。赤レンガ倉庫のイベントやビアガーデンで短期バイトをして生活費を稼ぎつつ、図書館に所蔵してあるVHSを片っ端から視聴して、自習スペースで論文を書いた。

 そして大学が夏休みを迎えたころ、いよいよ研究室にこもって論文を書かないと間に合わない、というタイミングで、おれはシェアハウスを出て実家に戻った。

 

 最後の日に、SF小説を書いているというヒッピー風ファッションのヒゲ男が隣の部屋に入居してきた。めちゃくちゃ臭かった。自転車野郎といいヤバいやつしか入ってこないなと思ったが、外の世界から見れば就職活動もせず怠惰な日々を送っている無職予備軍の大学院生も同じようなものだと思った。