2019年6月18日

f:id:melrn:20190618213022j:plain

 

球体Sとの祝福すべきコミュニケーション

 

 ぬめった肌がギラギラと鈍い光を放ち、死んだ魚のような臭いがするがおそらくそれは魚ではない。その大きな丸い塊はずっと小刻み震えていて、そのたびに濁った液体がポタポタと落ちる。無造作に伸びた緑色の体毛は沼地から這い出てきたように湿っていて、臭いはそこから漂っていた。台所に転がったオレンジジュースのパックを開けてマグカップに注ぐ。目をつぶって一気に飲みこむとベタベタした口の中が酸味で満たされて少しばかり吐き気がおさまった。

 

 6畳の部屋の真ん中に鎮座した緑色の球体は不気味な造形をしている。その姿は某不動産賃貸会社のマスコットのスー○くんを想起させた。マリモのように膨らんだ球体の接地部分からは細い脚が複数伸びている。体毛は全身を覆っているが、その隙間に小さく目も口も鼻もある。どこか悲しげな表情を浮かべているようにも見えた。こちらに危害を加えようとしているわけではないと何となく察知して、少しだけ安心した。

 頭上を小バエの群れが旋回している。対話を試みようにも、まずは部屋に充満している鼻を刺すような強烈な腐臭をなんとかしなければいけない。換気扇のヒモを引いてキッチンの小窓を開けると、その緑色の球体は怯えたように部屋の奥へゆっくり転がり、助けを求めるようにこちらを見つめ返した。

 

「おまえ、いつからおったんや」

 ぼくはできる限りの優しい声で問いかけたが、反応はない。昨日、仕事を終えてこの部屋に帰ってきたときは、特段いつもと変わったことはなかった。今日は早朝から茨城県で出張の仕事があって、寝起きにシャワーを浴びて髪も乾かぬままバタバタと部屋を飛び出した。そして上野駅で駆け込み乗車に成功した直後、常磐線の車内で今日の商談に必要な契約書類を丸ごと職場のデスクに置き忘れていたことに気づいた。そして土浦で不動産業を営む取引先のジジイに顔面を15発殴り飛ばされ、血を吐きながら満身創痍で帰宅したところ、自宅のアパートで腐臭を放つ○ーモくんらしき物体と遭遇したのだった。

 ぼくはこの未知の物体を「球体S」と呼ぶことにした。

 

「はよ出て行かんかい、しばいたろか」

 ぼくがその未知の球体Sへ一歩近づくと、球体Sは小刻みに震えた。ぼくはいつもならそんなに乱暴な言葉遣いはしないのだが、土浦のジジイにあらゆる罵詈雑言を浴びせられながら6時間ほど詰められたせいで汚い言葉遣いが脳みそに染みついてしまった。ぼくは言葉なんて発したくないのだ。

 球体Sは小刻みに震えている。また一歩近づこうとした瞬間、球体がさきほどまでの腐臭とは違った、アンモニアのような臭いを発していることに気づいた。

「おい、何しとるんや!!!」

 犬の糞尿のような濁った色の液体がみるみるうちに床に広がる。球体Sは体をよじりながら「ギギィ」というおよそ動物の鳴き声とは思えないような機械音を発した。部屋の中はさらに悪臭が充満し、ぼくはそのまま台所の床に激しく嘔吐して倒れた。

 

 翌日も、球体Sは部屋の主のように堂々と鎮座していた。ぼくはその日の出勤を諦めて、撒き散らされた汚物の処理に午前の時間をあてることにした。

「おまえどこから来たんや。不動産屋から逃げてきたんか?」

 球体Sの反応はない。そもそも生きているのかもわからない。音声の刺激に反応して腐臭を放ったり糞尿を垂れ流したりする無機物の可能性もある。昨日よりは腐臭も少し弱まったような気がしたが、たぶんぼくの方が臭いに慣れてしまったのだろう。せっせと雑巾で床を拭いても、球体Sは一定時間ごとに「ギギィ」と音を立てて糞尿を撒き散らした。ぼくはそのたびに「おい!」と声を上げたが、やがて雑巾を放り投げ、ビショビショに濡れた床に寝そべった。

 もともとこの部屋は清潔だったとは言えず、常にどこからか米の腐ったような臭いが漂っていた。球体Sはこの不潔な部屋に居心地のよさを感じているように見えた。ぼくよりもずっとこの環境に適応しているのかもしれない。何年も前からずっとそこにいたような、確かな存在感を放っていた。ぼくは部屋の床じゅうに広がった糞尿の処理を諦め、この狭い室内で球体Sと共生する道を選んだ。

 

 1週間も経つと、ぼくは部屋の中心に鎮座する球体Sの存在に不思議な愛着を抱いていた。元来ぼくはコミュニケーションが苦手なたちで、10代のころからほとんど友達と呼べるような人はいなかった。職場でも自ら言葉を発することは稀だ。とりわけ異性とのコミュニケーションスキルは絶望的で、おじさん相手であれば多少の事務的な応答はできるのだが、女性社員から話しかけられた途端に胃の奥にキュッと鈍い痛みを感じ、顔面は熱を帯びて紅潮し、脳味噌がスパークした末に「すっ、好きだニャン……」などと言い放ち、入社以来何度か厳重注意処分を食らっていた。おそらく次にやらかしたら問答無用で懲戒解雇となるだろう。

 コミュニケーションを必要としない他者(異物?)が、こちらの呼びかけや行動には一切反応せず、ただそこに存在している。ぼくは孤独ではない。それはとても気楽なことで、とても穏やかなことだった。

 

 眺めている限り球体Sは性別どころか有機物なのか無機物なのかもわからない。当初はぼくの大声に反応して糞尿を垂れ流しているのかと勘違いしていたが、根気よく観察を続けていると45分おきにそうした反応を示しているだけだった。迷惑きわまりないのだが、ぼくはそれを知ってより一層の安堵を覚えた。

 球体Sの神経回路は外部の刺激から切り離されている。そしてぼくという存在は空中を浮遊する綿ぼこりのように、この部屋の中で透明化されている。

 

 狭い部屋の中でつかず離れずの距離を保っていた1週間が過ぎ、ただ眺めているのにも少々飽きてきたので、ぼくは球体Sとの物理的接触を試みた。その頃にはすでに臭いはまったく気にならなくなっていた。昨晩コンビニへ煙草を買いに出かけたとき、店員がぼくの目の前で顔をしかめて鼻をつまんだ。それを見てぼくの身体にも球体Sの腐臭が染み付いていることに気づいたが、それはさして問題ではなかった。

 もともとぼくのような生物は社会からすれば限りなく透明に近い存在であり、それが臭いを帯びたことによって不快な形で可視化されただけだ。

 

 おそるおそる球体Sの腹部のような箇所に手を伸ばすと指先に「ヌプッ」と生暖かい感触があった。球体Sに温度が宿っていることにぼくは驚いた。そのまま緑色の毛を掻き分けてゆっくりと指を腹部にのめりこませていったが、球体Sは一切の反応を示さない。しばらくすると「ギギィ」と鳴いて脚の付け根から焦げ茶色の液体を放出した。そのころにはもう部屋に溜まった糞尿の池は膝下まで水位が迫っていた。僕はノートパソコンや本や預金通帳など最低限必要なものをソファの上に避難させ、そのわずかなスペースの上で生活していた。ほんとうに必要なものなんて数えるほどしかないのさ、と使い古されたフレーズを口ずさみながら、ぼくは仕事を辞めたことで発生した限りない虚無の時間と向き合っていた。でも、この部屋には球体Sが確かに存在している。それは何よりも尊い現実だった。

 

 ぼくは球体Sの内部に指をのめりこませていく。球体Sの粘膜はドロドロと湿っているが感触はホイップクリームのように柔らかく、ぼくの体温とまったく同じ温度で指を迎え入れた。身につけていたシャツとパンツを池の中に放り投げ、裸になったぼくは体重のすべてを委ねてさらに球体のコアに接近していく。心地よい温度の球体Sがぼくの身体をゆっくりと包み込んでいく。ぼくは外界に顔だけを残して球体と同化した。一定時間おきに球体Sの内部は痙攣し、全身を締め付けるように収縮する、ぼくの心臓はそれに呼応するかのように激しく鼓動し、そのとき足の爪の先まで血液が流れていくのがわかった。

 

 ああ、なんと幸せなことだろうか。

 球体Sの粘膜に全身を優しく包まれて、ぼくはこれまで生きてきた27年という長い時間のすべてが祝福されたように思った。生まれてから今日までずっと、こんな体験を求めていたのだ、ぼくは。自己と他者との境界線が少しずつ曖昧になり、やがて意識は同化するだろう。人類というカテゴリから遠く離れた球体Sとの肉体的接触によって、その尊い交信によって、ぼくは世界の真理を知ってしまった。

 今までぼくの前を通り過ぎていったたくさんの他者の人生を思う。それぞれに意思をもった固有の人間たち。彼ら、彼女らは、ぼくにとって恐怖の対象でしかなかった。ぼくが彼らに近寄った歩数の分だけ、彼らはぼくから遠ざかった。そうしてぼくは透明になって、この小さな部屋に隔離され、運命的に球体Sと出逢ったのだ。

 

 意思を持たない球体S。それは一定時間おきに糞尿を吐き出すだけの哀しい物体だが、その体温はどこまでもやわらかく、ぼくという透明な存在を受け入れてくれる。これはもしかするとセックスと呼ばれる営みに近いのかもしれないが、童貞のぼくには確かめようがなかった。でも、これはきっとセックスなんかよりもはるかに素晴らしいものだという確信めいた思いが湧いてきた。これはセックスなんかじゃない。もっと繊細で、柔らかくて、尊いもの……。

 

「ああ、ぼくは気づいてしまったよ、これがコミュニケーションというやつなんだね。ぼくはこれをずっと探していたんだね」

 

 ようやく絞り出した微かな声にも、球体Sは反応を示さない。ただゆるやかに胎動し、拡張と収縮を繰り返す。ぼくと球体Sのコミュニケーションにおいて、言語は意味を持たないのだ。どんどん意識が遠のき、全身が球体Sの体温と同化されていくのを感じる。はじめから言葉なんて必要なかったのだ。ぼくが、ぼくだけが、ぼくという存在だけが確かな意思を持ってここに存在している。みんなが言っていたことはぜんぶ嘘だったのだ。匿名の他者にずっと騙されていたんだ、ぼくは。

 

 でも、ぜんぶ許してあげる。ぼくは本当のコミュニケーションに気づいてしまったから。この限りない愛で、迷えるあなたたちを救済してあげよう。

 

 肉体は球体Sと一体化し、ぼくは激しく身体を震わせて昇天した。

 

 

 

 腐臭に満たされた部屋のなかで、点けっぱなしのテレビが青白い光を放っている。ボリュームを絞ったスピーカーから何度も同じフレーズが流れる。ぼくはその音声をどこか遠く離れた場所から聴いていた。

『新元号は、令和であります』

 平成は通信とインターネットの時代だった。言語やテキストによるコミュニケーションが異常発達し、人間と人間が縦横無尽につながり、たくさんの摩擦と悲劇を生んだ。

 そして、その円環から取り残されたぼくは球体になった。ようやく長い戦いが終わったのだ。体内から微かに聞こえる心地よい音楽に、ぼくはそっと耳を傾けた。 

 

スモスモスモスモスモスモスーモ……