2019年3月26日

 

 

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 ソフィ・カル展「Parce que(なぜなら)」(ギャラリー小柳)。木箱にかけられた布に刺繍が施され、めくると写真が見える仕掛けになっている。「テキスト→写真」という順序が明確に規定される形式で、それは彼女が写真を撮る行為とそのままリンクしている。彼女のイメージのまずはじめにテキストがあり、それをヴィジュアライズするために撮影を行う。私たちは彼女の撮影行為をなぞるように写真を見る。赤い布をめくると現れる、静かな青い海。視覚的な快楽を促す巧みな仕掛けと、洗練されたテキストによって現実を再構築しようとする、ソフィ・カルの制作スタンスが明確に示されていた。


 

 原美術館でのソフィ・カル展「限局性激痛」。20代のときに日本に留学した彼女が、滞在中の3か月で撮りためた写真と恋人への手紙を時系列で並べた作品だ。1階の展示は、離れて暮らす恋人と別れるまでカウントダウンになっている。不鮮明な写真を、その直下に掲示される長文のテキストで補完する形式をとっており、まるで彼女の日記帳を空間全体に立ち上げたような展覧会だ。写真のコンテクストではなかなか捉えづらい作家だが、彼女の作品は近年の長島有里枝や植本一子らが取り組んでいるような、フェミニズムを色濃く反映させた日記やエッセイともニュアンスが異なる。すべての出来事が彼女の主観で語られているのだが、端的に言うとすべてがどこか「嘘っぽい」のだ。恋人との関係性に過剰なほど没入しているために、そこに描かれているのは彼女の個人的な感情の揺らぎであって、目の前で起きている事実への客観的な考察ではない。おそらく彼女自身も、ドキュメンタリーとしてこの作品を制作したわけではないだろう。あまりにもその一人語りが洗練されているがゆえに、まるで台本をなぞっているかのようにカウントダウンが進んでいく。スナップ写真は取り立てて目をひくようなものではないが、キャプションのテキストと写真の間に挿入される手紙が遠距離恋愛のエモーションを際立たせる機能を果たしている。

 

 「写真は作者たる写真家の思惑などはるかに超えて一人歩きを始めるのだ。それは逆に考えると、すばらしく開かられたメディアであるということになりはしないだろうか。(中略)写真はただの媒介である。そのことに徹することによって、われわれはもう一度新たに有効なメディアとして捉え返すことができるのではないか。」(中平卓馬『個の解体・個性の超克Ⅱ』)

 

 写真の開かれた可能性を論じた中平卓馬のテキストからひとつ補助線を引いてみると、反対にソフィ・カルが写真というメディアをきわめて閉鎖的な形で利用していることがわかる。写真はあくまで彼女という「主体」の中にとどまり、広がりを見せることはない。さらに、撮影が決して上手でないことが、彼女のエピソードを逆説的に「真実っぽく」見せているのである(例えば彼女がコマーシャル・フォトグラファーのような技術を持っていたとしたら、より「嘘っぽさ」が強調されることになるはずだ)。それゆえに、写真はどこまでも予定調和であり、すべての出来事は彼女のテキストが作り上げた箱庭の中で起こる。撮影を通じて外の世界との接触を図るのではなく、すべては彼女の「主観」を補強するための挿絵なのだ。

 2階の展示は、その「主観」を他者の語りによって相対化するような構成になっている。彼女が人生最悪の日の記憶を知人に語り、その知人からも人生最悪の日の記憶を語ってもらう。彼女は何度も同じ話をするうちに語り口が洗練され、初めのうちは支離滅裂だったエピソードも徐々に編集され、構成が整っていく。それは彼女が客観性を取り戻していく過程である。他者の悲痛なエピソードを自身の経験と相対化することによって、彼女自身は絶望の底から救われる。おそらく、彼女は他者の語り自体には関心がないのだろう。そこにあるのは双方向のコミュニケーションではなく、あくまで彼女自身が悲しみから救済されるための一方的な語りである。テキストの上に掲示された写真もまた、その一人語りを補強するものに過ぎない。

 ここまでやや批判的な論調になったが、徹底的に内側に閉じこもった箱庭の強度こそが、ソフィ・カルの作品の最大の魅力であるとも思う。客観性や論理性、政治的正しさのレイヤーを超えて、極私的で内向的なテキストだけが持ち得る説得力がある。「自分ひとりだけがつらいわけじゃない」なんて、誰だって言われなくてもわかっている。それでも語ることによって、書くことによって救われる悲しみがあるのだ。絶望の淵を這って生き抜くための、写真とテキスト。その救済のプロセスを鮮やかに示した展覧会であった。

 

 ソフィ・カル「Voir la mer(海を見る)」の上映については前回のエントリで言及したので、ここでは割愛。あんなにひどいキャッチコピーがあるかよ。しかしただ嘆くばかりではなく、メディアの端っこで飯を食っている人間として、広告表現の暴力性については常に考えなくてはならないと思う。自分自身、ポーズとして過剰に批判している部分は否めない。おれもたぶん似たようなことをしている。

 

 

本当の話

本当の話

 

 

 

 やはり、日常で言いそびれたことを書きとめておかなくては、心が静まらないからだ。「ごめんね」と「ありがとう」を伝えておかなくては、悔やんだまま、わだかまりを残したままでは、死にきれないからである。

早川義夫「人はなぜ書くのか」−『生きがいは愛し合うことだけ』(2014年))

 

 

 

「会えなくてゴメン」と連絡くれるのは謝る必要ない人ばかり

 

幸せな頃に聴いてた音楽をポッケに入れて地下鉄に乗る

 

この煙草あくまであなたが吸ったのねそのとき口紅つけていたのね

 

佐藤真由美歌集「プライベート」(2002年))

 

プライベート (集英社文庫)

プライベート (集英社文庫)

 

 

 

 

 溜め込んできた言葉が重なって声になる。重い肉体が心地よい音だけを拾う。ルーレットを回せば、また次の刺激がやってくる。溶けない粉末を唾液で飲み込んで、きっとまともな顔をしている。顔を見合わせている。嘘をついてばかりだ、わたしたち。ルーレットは回る。どこにも行けないのに。窓ガラスにこびりついた空がぼんやり明るく見えて、今日は誰も傷つかない。

 

 部屋の本棚に収まりきらないほど本や漫画が溢れてきて、なんとか整理したりブックオフ売ったりしなきゃいけないのだけど、そのゴチャゴチャした光景がなんだか気に入っていて、そのままにしている。生きているうちに読むことのできない本、観ることができない映画、そういうものがたくさんあるという事実にわりと救われていたりする。摂取できる量は有限だから、何を選んできたのか、なにを捨ててきたのか、その無数の選択の上に今も立っている。捨ててきたものはそれなりにあるけれど、たぶん大切なものではなかった。

 

 日曜、下北沢まで散歩をする。マジックスパイススープカレーを食べる。B&B川口晴美の詩集を買って、古着屋を回って春物の明るい柄シャツを買う。ナチュラルクレープでいちごカスタード生クリームのクレープを食べる。「最後の晩餐で何を食べたいか」という定番の話題には過去5年くらい「ファミチキ」と答えていたけれど、今はもう迷わずナチュラルクレープだと思う。新鮮ないちごの酸味と生クリームの素朴な甘さをひとくちで味わって、満ち足りた気持ちのまま死にたい。クレープを食べながら駅に向かう、パーカーの袖に生クリームが落ちる。よしもとばなな先生、見てますか。めちゃくちゃシモキタっぽいですよね、おれ。

 

 いつも眠りが浅いから、不摂生を続けている。ビニール袋の中でアイスクリームが溶ける、ぽたぽた滴り落ちる。乾いたコンクリートに白い痕が描かれて、この道をたどればまたコンビニに戻れる。商店街を駆け回る子どもたちが法律をつくる。みんなが道徳を愛している。もう誰からも指をさされませんように。

 

 年明けに「今年は車の運転をする」と友達に宣言していたけど、未だにハンドルすら触っていない。運転免許を取ったのは2011年、震災直後の春。大学の授業が延期になって、ずっと家にいるのも落ち着かなかったので、教習所に通うことにした。たびたびの余震に怯えながら、仮免で高速道路を走った。同じ車でテストを受けていた大学生の男は、途中で「すみません、もう無理です」と言って、八潮のパーキングエリアで運転席を交替した。とてもじゃないけどおれも運転できるような状態ではなく、車が走っている間はずっと「中止にならないかな」と思っていた。そのあと免許センターの試験に3回も落ちてようやく免許証を手にしたが、それからあまり運転しようという気にはならなかった。車の運転ができるようになったら、きっと見える世界も変わるだろう。夜中のパーキングエリアでラーメンを食べたい。小学生のころに引っ越して以来、ほとんど行ったことがない故郷の甲府の町が見たい。高速道路の脇に建つチープな外観のラブホに泊まって、窓の外を走る車を見下ろしてみたい。

 

 夏になったら、イルカショーを見に行きましょう。廃墟みたいな水族館の、オモチャみたいなプールのなかでスイスイ泳ぐイルカを見たら、たぶん忘れられる、いやなこととか、やりきれないこととか。水しぶきがはねて、きらきら光って、子どもたちが騒いで、今日までの罪をぜんぶ洗い流してくれる。連絡を待っています。もうとっくに忘れてしまったかな。